フィルム写真と旅する

地方に暮らす写真好きの旅と日常

地方の街に流れる、ゆったりとした時間の正体

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今日も僕の住む地方の街では、ゆったりとした時間が流れています。

連休明け最初の仕事の日、やることは幾つかあるのだけど、いざ始まってしまうと連休前までの感覚がスッと戻って来るのでした。

自然とまた、いつもの時間の過ごし方に馴染んでいる自分がいます。

連休中は沢山休んで、好きなことが沢山出来たから、体が万全の状態なのかもしれません。
心に何も欠けていないのが良いのかもしれません。

何事もなく、時間はゆったりと流れていきます。

地方の街に流れる時間

あるいは時間なんてものは本当は存在しないのかもしれません。
時計の針や数字が、ただ前に進んでいくだけなのかもしれません。

誰かが勝手に区切り始めた、本当は意味のないもの。
そこにあるのは季節の移り変わりだけ。
体が少しずつ老いて、動きの止まる日に向かっているだけ。

例えば子供の頃のような代謝は失われても、気持ちは枯れないままという生き方だってある。
早くに精神は成熟して、あとの人生を落ち着いて過ごすという生き方もある。

風が吹いて、やがて過ぎていくのを待つように、
屋根の下で雨宿りをして、雫が落ちるのを静かに見つめるように、
描き始めた絵を何日も何ヶ月もかけて仕上げるように、

ゆったりと流れる時間の正体は、
「待つ」か「仕掛ける」かの過ごし方の違いなのです。

ゆったりとした時間を、より良く過ごすために

「待つ」時間を過ごすのも、「仕掛ける」時間を過ごすのも、
どちらの時間の過ごし方も、少しずつ上手になっていくものです。

待っている時間は様々な考え事をして、
突然いいアイデアが降ってくる時もあるし、

写真を撮ったり、実際に手を動かして仕掛けている時に、
思いがけないものが生まれる時だってあります。

それは神経が目に見えない所で繋がって、
まるで偶然であるかのように閃く瞬間です。

その瞬間がとても気持ちよくて、もっと味わいたくて、
「待つ」と「仕掛ける」時間をより良く、より長く過ごそうとしている。

きっとそうなのです。
何だか釣りみたいですね。

「待つ」と「仕掛ける」を一緒に

「待つ」と「仕掛ける」状態を一緒に過ごせる場所ってなかなか無くて、

例えばマスターの趣味嗜好が凝らされた喫茶店だったり、
住む人のこだわりが詰め込まれた家だったり、
撮り手と役者と裏方の感性が作用し合った映画だったり、

そういうものに触れている時に「待つ」から「仕掛ける」へシフトする瞬間が訪れやすくなる。

僕が作りたいのはそういう場所や時間です。
思考や感覚の背中を押す空間や表現です。

そのためのフィルムカメラです。
そのための写真と文章です。

全部繋がっているのです。
今日も少しずつ、待っては仕掛けてを繰り返していきます。